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人生に必要な体験?「覚醒」と「悟り」の違い

人生に必要な体験?「覚醒」と「悟り」の違い

窓


「覚醒」と「悟り」という言葉は混同して使われる場合が多いと思いますが、「覚醒」は感動体験であり「悟り」は理解に近いものだと思います。


「覚醒」とは、予告無く突然に訪れる力強い感動体験です。
例えば、自殺を考えていた人が突然に意識の反転現象を起こし、自分が生きていることに対して大きな喜びを感じるようになるといったようなことです。
クンダリニー昇華の場合、身体的な衝撃を伴って精神的なエクスタシーが起きます。
覚醒とは人生のブレイクであり、停滞から変化へ移るタイミングで起きます。そして重要なことは、これが新しい体験と学びのステージへ移る入り口になるということです。

天からの光

覚醒体験を得ると精神のブロックが解除されるため「引き寄せ」の力が強くなります。
それまでうまくいかなかったビジネスが上向いたり、長く患っていた病気が治ってしまったり、あるいは第六感などの潜在能力が開くようなことがあります。

この体験を得ると、自分が何か特別な存在になったかのように感じて周りの人たちが自分よりもレベルの低い存在のように見えてくる場合があります。
そのような人の中には、極端な例ではカルト教団を設立する者もいます。
覚醒は運気の上昇を伴いますが、このように慢心してしまった場合には運気が負の方向に大きく反転します。しかし、それも魂の成長のために必要な体験と捉えるべきでしょう。
カルト教祖になってしまうような人は周りを自分の価値観に染めようとして他人のアイデンティを否定したり、他人から有形無形の財産を取り上げたりします。その結果、社会からつまはじきにされて孤独になったり法的な処罰を受けたりというような転落を体験をするのですが、それは自分を観察することの重要性を学ぶ機会になります。

覚醒は瞑想などスピリチュアルなメゾットによって得る人と、人生の大きな事件が引き金になって得る人がいますが、魂が成長していくプロセスとして輪廻転生の間に何度か体験するものだと思います。
覚醒体験は自身の新たな学びの入り口になるという意味で、人生で一度は体験したほうが良いものだと私は考えています。


一方、「悟り」とは、自分は何のために生まれてきたのかについて理解することです。
覚醒は動的なものであるのに対して悟りは静的なものです。
悟りを得ると俗的な欲望が抑えられて生活が質素になる人もいます。

ただ、悟りは人生経験や輪廻転生を重ねることで自然と得るものであり、意識して求める必要の無いものだと私は考えています。
おそらく悟りには多くの段階があって、最終段階に至るとその人の輪廻転生はそこでストップするのだろうと思います。

「苦集滅道」とは悟りを得るための道(修行)のことを意味しますが、般若心経の中では「無苦集滅道」と言っており、これは「悟りを得るための道は無い」という意味になります。
宇宙は「空」という絶対的な自由空間であり、そこには「愛」が満ちています。
空の間、すなわち宇宙空間で自己の自由意思で立ち振る舞っていくことによって現世の楽園(彼岸)を見つけた人が観自在菩薩です。
(※般若心経の解釈は様々ですが、私はこのように捉えています。)

悟りとは人間が元一つのものに戻っていくプロセスです。
しかし、今の私たちは個々の違いを楽しんで生きています。違いを味わうことが魂にとってのエキサイティングな体験の旅になっています。
理解を深めたり知識を得ることも必要ですが、いかに自分の創造力を広げることが出来るかが大事ではないかと思います。
今の世の中は、ある者が他の者を操縦するために構築された社会の倫理や宗教、スピリチュアルが非常に多いと思います。
宇宙を統べるものは一つだから、すべての人間の価値観は一つに統一されなければならないとするのがカルトです。
自分が生きる意味や目的を他人から与えられて、それを悟りとするような生き方はもう終わりにしましょう。

(やしろたかひろ)

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