弥栄-いやさかの会

日本は信仰の国。宗教の国とどこが違うのか

日本は信仰の国。宗教の国とどこが違うのか

弁天


新約聖書には「愛」や「赦し」について強いメッセージか込められています。
それらキリストの本質的な教えは、宗教や民族を超えて誰にでも響く内容だと思います。

なのですが、それが教典という形で文章化されてしまったことが間違いでした。
文章というのはそれを書く人の主観が混ざったり、途中で改ざんされたり、読む人の都合で様々な異なる解釈をされてしまうなどの問題があります。
そして、聖書はキリストが直接書いたものではなく、その弟子や後世の信徒たちが書いたものなので、多分に神話的な側面があります。

聖書の内容が神の言葉のように扱われていく中で、組織化された宗教が生まれ、異なる考え方を持つ者を排除したり、十字軍のように暴力を正当化することに使われてきたこともありました。


その点から言うと、神道には祈りの言葉はあっても、教えをひとつにまとめて文章化した経典がありません。

神道には、目の前に見えている山や川などの存在そのものが罪穢れを祓う力、すなわち自然界そのものが「愛」や「赦し」を表現しているのだという思想があるのです。
そのために日本の文化は様々な宗教や思想、様々な民族の文化を包含することが出来る寛容なものになっているのです。

しかし、統一教会の信者の方にこのことを説明すると、驚愕の反論が返ってきます。
聖書は、真理が明確に示され文章化された神の言葉である。神道は(神による)被造物である山や川を信仰する偶像崇拝であり、サタンが最も好んで使う偽装手段である。と主張して寄せ付けません。

美しい景色を見て美しいと感動する人間の自然な感情が、サタンの現われだと彼らは言いたいのでしょうか。
この地球上で、調和を乱し異なるもの同士の争いを起しているのがこのような宗教的意識です。


「宗教」と「信仰」の違いは何でしょうか。

宗教の本質は「服従」です。

人間を超越した絶対的な神を設定し、それに身も心も捧げてしまうものが宗教です。それは無条件降伏の世界なので、個人としての自由や主体性が大きく制限されます。
神の名もとにつくられた組織や教義に対して、決して疑問を挟まず無条件で従う姿勢が善であり、そうでない姿勢は悪とみなされます。

しかし、心理学的な見地で言えば、自らの積極的な意思で何者かに対する服従を決意するのは、何かの不安を払拭したり願望を叶えてもらう代わりの取引行為である場合が多い。
自分で自分のことを愛することが出来ない人は、服従することで神様に愛してもらおうとします。

それに対して、信仰の本質は「感謝」です。

神道の土台となっている自然信仰(アニミズム)とは、自分を生かしてくれている自然界や先祖や周りの人々に対して、自然に湧き上がる感謝の気持ちのことを言います。
万物に神性が宿っていると考えるので、人間関係ではお互いに違いを尊重合いします。

宗教とは服従であり、信仰とは感謝である
というのが私の結論です。



わびさび


クリスチャンであっても、自分の信念を持ち、日本の伝統的な文化や信仰に対して敬意を払っているイーロン・マスク氏のような人もいます。
そのような人は、宗教としてではなく信仰としてキリスト教のポジティブな面と関わっている人でしょう。

逆に、神道の形を取っていても、エゴが強すぎる意識で神社へ行けば、それは宗教になります。


もともと、日本には外国ではありえないような文化があり、それは世界中から注目されてきました。

外国では大きな災害が起きると必ず略奪が起きるので、物資の支援には危険を伴います。
ところが、日本ではそのような極限状態の時に分かち合いが起きます。
また、日本では、街で財布を落とせば、ほとんどが交番に届けられて戻ってきます。

この違いは、宗教の国と信仰の国との違いなのだろうと思います。

(やしろたかひろ) 

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