弥栄-いやさかの会

「家族」と「社会」との違いとは何か

「家族」と「社会」との違いとは何か

コミュニティ


コミュニティという言葉の意味はとても幅が広くて、家族や地域社会といった地縁・血縁で繋がっているものから、趣味のサークル仲間、会社、そして現代ではSNSのように一度も顔を合わせたことの無い者同士が価値観だけで繋がるコミュニティまであります。

この中で、最も小さな枠の中で構築されているコミュニティが「家族」です。
それ以外のコミュニティは、「社会」という大きな括りの中の一部と捉えても良いのではないでしょうか。

最近では、農的コミュニティやエコビレッジといった新しい形の村づくりにチャレンジする人々が増えてきていて、それらが「家族的な繋がり」をコンセプトに掲げていることが多いですね。
この「家族的な」という考え方はこれからの時代にものすごく大切なテーマだと思うのですが、これを実際に実現させることは決して簡単なことではないと思うのです。


「家族」と「社会」との根本的な違いは何でしょうか。

例えば、同じ町内などの「地域社会」は、災害が起きた時に助け合うとか、とてもゆるやかな相互扶助で成り立っていて、しかし、自治会費を払わないとか、ゴミ出しなどのルールを守らないとすぐに村八分みたいになってしまう可能性を秘めています。

最も打算的なコミュニティは「会社」や「宗教組織」です。
統一された思想や目標に対して忠実性が薄れたり、成果を出せなくなるとたちまち排除されてしまうのがこれらの組織です。

一方で、家族という人間関係では、何かを成し遂げる義務も無く、存在そのものが肯定され、「自分はここにいてもいいんだ」という支えをもらうことができます。
仮に怠け者で全然仕事をしない大人が中にいたとしても、その人を絶対に飢えさせないのが家族です。家族関係の中では「施し」や「ボランティア」という言葉は存在しません。

中には血の繋がりがあってもそのような関係にはなっておらず、様々な問題を抱えている家族もあります。
しかし、家族の本質というのは、無条件で支え合うことによって互いに精神的に成長していくことのできる人間関係だと思うのです。

そのような打算の無い人間関係を作ることを目指してスタートしたが、結局は生産性の高い者とそうでない者との間に対立が生まれて失敗したエコビレッジもあります。
例えば、農的コミュニティの場合、農作業が出来る働き手が必要です。
しかし、年を取って農作業に参加することができなくなった人はコミュニティから出ていきなさい、というのでは生産性の無い社員を排除するために定年制を設けている会社と同じになってしまいます。これでは「家族」じゃないですね。

血の繋がっていない人たちが、家族同然のコミュニティを作ることは不可能なのでしょうか。

日本の縄文時代には、実際にそのようなコミュティがあったようです。

縄文時代は狩猟採集生活が中心でしたが、皆で取ってきたものをまず一か所に集めて、それを平等に分けるという手段で生活共同体が成り立っていました。
また、子どもたちがコミュニティ全体で育てられていたり、身体障害者がいてもコミュニティ全体でその人を支えていたという形跡もあるそうです。
今は「福祉」といって国がお金を使ってやっていることを、この時代にはコミュニティの中で当たり前にやっていたのです。

そして、縄文時代にも離れた場所にあるコミュニティ同士で交易が行なわれていたことが分かっているのですが、当時は貨幣なんて無い時代でした。
おそらく、それはビジネス的な関係ではなく、共助の心をもって必要なものを融通し合っていたのではないでしょうか。

縄文コミュニティとは、現代で言う「家族」と「社会」とが統合されたものだった可能性が高いのです。

(やしろたかひろ)

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