弥栄-いやさかの会

生老病死を考える。-スピリチュアルコラム【いやさかの会】

生老病死を考える。

「四苦八苦」という言葉があります。
これは仏教用語で、四苦とは生・老・病・死のことです。
生・老・病・死は、人間が抱えている苦悩の四大要素です。
このことについて、以下考察してみたいと思います。

「生きること」

戦後、豊かな経済成長を続けてきた日本も、バブル崩壊後に長い経済不況を経験し、人が食べて生きていくということが、こんなに大変なものだったのかと実感した人は多いのではないでしょうか。
世の中には、働く意欲があっても仕事にありつけない人がいます。人は仕事がなければ食べていけません。

私も三十代の後半に失業を経験し、一時途方にくれた時期がありました。
しかし、この時に私が学んだことは、自分の心の持ち方で現象が変わる、ということだったのです。
ただ単に仕事が見つからないことを悩んで落ち込んでいただけの時期においては、やはり何の改善策も発見できませんでした。
ところが、具体的に仕事が決まる見込みが立ったわけではなかったのですが、ある時から自分の心の持ち方が切り替わり、「絶対に何とかなる」と思い込むようになってから、間もなく現象が変わったのです。
そのような思い込みによってまず私に起こった出来事は、予期してもいなかったところから当面生活をするために必要なお金が突然入ってきたことでした。そして、その数ヵ月後には仕事も決まりました。

ここで皆様にお伝えしたいことは、「一念、矢をも通す」「念ずれば花開く」という言葉です。
自分の思考が後ろ向きになったときには現実もそれなりのものになってしまい、思考が前向きになれば現実が改善するということなのです。
常にプラス思考を持てる習慣を作ることが大切です。

「老いること」

私たちは自分の失敗を振り返って後悔し落胆したり、焦ったりすることがよくあります。
私たちが「後悔」という思考に陥る理由は、自分に寿命があることを皆知っているからです。

最近の日本人の平均寿命は80歳ぐらいでしょうか。そう考えると、今50歳の人は、「あと30年しか生きられない」と考えてしまいます。
ところが、私はあるテレビ番組を見て知ったのですが、中国のウイグル自治区では農業を生業として人々が暮らす村を中心に100歳を超えるご長寿が900人近く住んでいるそうです。
しかも100歳ぐらいの人たちが皆、腰も曲がらず、認知症にもならずに元気に暮らしているのです。
中には90代で若い女性と結婚し、四人も子供をもうけたおじいちゃんもいました。
私はそれを見て、本来、人間には150歳ぐらいまでは生き続けられる能力が備わっているのだと思いました。

そこで、人の寿命を150歳と仮定して考えてみたらいかがでしょうか。
今50歳の人はあと100年は生きる計算です。
まだまだ、チャンスのある年齢であると言えるでしょう。

「病気になること」

末期がんにかかった人が治ってしまったというような話を、しばしば聞きます。
私自身、ある瞬間に二つの慢性的な病気が治ってしまったという体験を持っております。

病気は、その人が何かを学ぶために必要があって引き寄せるのだという人がいます。
病気にかかってそこから何かを学べた人と、学びきれなかった人とでは、大きな差があるのだろうと思います。
今、何かの病気を持っている人にまず大切なことは、あきらめないということです。
これまで脇目もふらず仕事などを一心不乱に頑張ってきたような人は、病気になったことによって、今までとは別の視点で自分の人生をゆっくりと眺めてみることのできる時間を持つことができたはずです。

病気という人生の大きな体験をきっかけにして、そこから自分がこれからどう生きるのかを考えてみることが大切なのではないでしょうか。

「死ぬこと」

一般的な考え方をすれば、若くして不慮の事故や病気で亡くなる人よりは、長生きする人の方が当然幸福であると言えるでしょう。
ですが、いずれにしても死の瞬間は誰にでも訪れます。
また、死が私たちの最後なのではありません。

死後も身体から離れた意識(「魂」とか「霊」とか言う人もいます)は存在し続け、転生のための準備をする期間に入ります。
そのように考えることができれば、死は全然不安なものではなくなります。
想像してみてください。私たちが肉体のない意識だけの存在になったら、食べることも着ることも必要がありませんし、自分の身体が傷ついたり病んだりすることを心配する必要もなくなります。
すなわち、悩み事がなくなるのです。それはどんなに幸せなことでしょう。

ただし、ここで誤解のないように願います。生老病死の苦しみから逃れるために自らの意志で命を絶つということは、決して幸福な死にはならないのです。
世の中に偶然はなく、すべての現象には意味があります。
あなたがこの世に生を持ったということは、この世で生きなければならない理由や目的があったからです。
その目的を遂げることなく途中で自己の命を故意に絶ってしまえば、死後に生命の意味を悟ったとき、それはあなたの魂の意識の中での深い後悔となって現れるでしょう。

年数の長短とは関係なく自分がこの世に生まれた目的を遂げ、天寿を全うして死ぬことができれば、それこそが祝福される最期となるのです。

やしろたかひろ
(2005年11月28日)

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional