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オタク、ニートが世界を変える-スピリチュアルコラム【いやさかの会】

オタク、ニートが世界を変える!

私は、「オタク」や「ニート」とは、資本主義のシステムに支配された今の社会構造と肌の合わない人たちであると考えております。

資本主義社会は、上下関係を作る人の集合体です。
この社会では、人の優劣はお金を稼ぐ能力によって決められ、それ以外の価値は、ほとんど評価の対象になりません。
稼ぐことのできる人が社会的に上位の立場に置かれ、いくら他人に対して親切で道徳的な人物であろうと、お金を稼ぐ能力がなければ、この社会の中では下位に甘んじなければなりません。
人間よりも経済、お金が上位にあるのが資本主義社会の成り立ちなのです。

「オタク」や「ニート」は、人間関係に上下の区別を作りたがらない人たちだと思います。
オタク化する人は、子供時代の環境に影響されている場合があります。
子供の頃、自分の親がヒステリー症だった、アルコール中毒だった、あるいは身近に非常に威圧的な大人がいた。── そのような環境の中で精神的に抑圧された体験をもつ子供は、大人になると主従関係を極端に嫌うようになります。
力による支配・被支配の人間関係ではなく、血の通った対等な人間関係の中で生きてゆきたいと考えるようになるのです。
しかしそれは、資本主義社会の中で生きるにはあまりにも不適合な人格であり、しばしば社会に幻滅してコンプレックスを感じ、引きこもりなどのネガティブな方向へ向かいがちになります。
だから、彼らはしばしば、他人から現実逃避だと非難されるような趣味志向へ走るようになるのです。
オタク=引きこもり、というイメージが強いのはそのせいです。
そして、これまでオタクは、生存競争に打ち勝つ能力の無い、ダメ人間として軽蔑されてきました。

オタクの趣味といえば、漫画、アニメが定番のように言われています。
しかし、オタクの定義を私がここに示したものと仮定すれば、オタクが向かうことのできる生き方というのは、実に多様な可能性があると思います。
芸術家やボランティア活動家、平和運動家、心理学者、自然愛好者などの中に、多くのオタクがおります。
現実の競争社会から離れたところに自分のライフワークを置こうとする意思が、そのような志向へ向かわせます。
ただ、いずれにしても、今の社会の中ではオタクが脚光を浴びることのできる場というのが、キャパシティ的に限られてしまっています。
そのようなポジティブな活動へ向かうことができない行き場のないオタクたちは、やはりインドアに引きこもるしかなかったのです。

しかしながら、今の世の中の主流である非オタク、すなわち一般人や常識人と言われる人たちが作ってきたこの社会は、果たして人類に幸福をもたらしてきたのでしょうか。
他人と競争をして勝者と敗者に分かれ、結果的に、果たして勝者は幸せを勝ち取ったのでしょうか。
ヒステリー症や不安神経症の会社社長をよく見かけます。
絶えず下の者から後を追われ、ライバルから引きずり落とされる恐怖、いつまで自分の身分が安泰なのだろうかという不安、会社の売上がいつ落ちるかという不安、・・・そういうストレスを毎日、心の中に抱えて生きてはいないでしょうか。
そういう恐怖や不安が蓄積すると、人間のエゴイズムや攻撃性が強まります。そうすると支配・被支配の関係がますます強まり、社会秩序の乱れや環境破壊、飢餓貧困問題、戦争の引き金となっていきます。

資本主義にも、共産主義にも全く同じ欠点があります。
それは、他者に依存しなければ、自己の精神的安定を保てないことです。
自分が自分であることの価値を感じながら生きていくことができないことです。

自立した個人の集団によるコミュニティ。
個々が持つ、異なる能力が正当に評価され、個性を生かしあいながら全体がまとまっていく共同体。
作業や事務処理や営業の能力などに対してだけではなく、その人の人間性や道徳心や人生経験といったものにも対価が支払われる社会。
そういう、資本主義でもない、共産主義でもない、全く新しい社会の価値基準が必要な時が今来ているのではないでしょうか。

私は、新しい社会の価値基準は、オタク社会が進化することによって形成されるのではないかと考えております。
金儲けの才能だけではなく多様な才能に価値を認め、支配・被支配の関係ではない社会を作ることができるのは、やはりオタクしかおりません。
今、オタクが脚光を浴びるときです。

やしろたかひろ
(2005年12月27日)

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