人生の転換期 -「揺さぶり」から「破壊」と「再生」 へ
人生の転換期 -「揺さぶり」から「破壊」と「再生」 へ
人は誰でも、人生の中で何度も「転換期」という時期を体験します。
転換期とは、その人の「破壊」と「再生」が訪れるタイミングを意味します。
転換期に差し掛かったときには必ず「揺さぶり」が起きます。
「揺さぶり」→「破壊」→「再生(創造)」という順番です。
「揺さぶり」は感動体験であることもあれば、ネガティブに見える出来事であることもあるでしょう。
いずれにしても、そういう出来事をその人がどう捉えてどう行動するかによって、スムーズに次のステップへ上がれるかどうかが決まります。
では「再生」へ向かう前段階として起こる「破壊」とは何でしょうか。
それは、自分の殻を破るとか、自分の性格を変えるといったようなことなのでしょうか。
何のために、自分の殻を破らなければいけないのですか?
何のために、自分の性格を変えなければいけないのですか?
・・・そのように、人に言われたから???
自分の殻を破りたいとか性格を直したいと考えた時点で、自分を愛していないことになります。
多くの場合、人の性格が良いとか悪いとか言うのは主観的な判断です。
他人からああだこうだと言われて、他人の真似をするところに救いは無いということを、私は自己の体験で知っています。
「破壊」とは、今までの自分を否定的に捉えることではなく、ありのままの自分を徹底的に愛することが出来るようになる意識転換が起こることだと私は考えています。
他人からあなたの欠点はこうだと指摘されようが、そんなものはすべてスルーして無条件で自分を愛せる自分になっていく。そのようになるステップアップのタイミングが人生の中で何度かあり、それが「破壊」なのではないでしょうか。
自分を愛していない自分を破壊していくのです。そうすれば、自ずと生き方が変わり、別に意識して努力しなくても人の評価も変わってくるのです。
ただし、そのプロセスにおいて、自分の感情に揺さぶりを起こしてくれる存在として他人の働きが重要になることは確かです。そういう意味で人間関係は宝なのです。
私が社会人になったのは、バブルが始まった頃でした。
「アタッシュケースに勇気のしるし」「24時間戦えますか」という歌詞の入ったCMソングが流行し、私自身もアタッシュケースをひとつ持って会社のために月の3分の2を地方出張に明け暮れたような時期がありました。
一時はそこそこの収入を得ていたこともありましたが、激動の時代の中で勤務していた会社が潰れたり、社風に違和感を覚えて自分の意思で会社を辞めたりといったことが繰り返され、バブルが崩壊した頃には大した貯金も残りませんでした。
この時代までの私は、強い者に振り回され、世の中の大きな波に飲まれていただけで自分で選択した人生を生きれていなかったのです。おそらく多くのサラリーマンがそうだと思います。特にバブル期を生きてきた人たちは、そういうドM体質に陥っていたでしょう。
私の場合、そのような習慣が自営業に転身した今の自分の中にも残ってしまっているので、自分はもっといい加減に振る舞って自分のために生きて良いのだと自分に言い聞かせるようにしています。
バブル崩壊直後に私は結婚をしましたが、夫婦生活が軌道に乗ってきた頃に妻が現代医学では不治とされている病に侵されてしまいました。私の人生の中で、妻の病気が長い揺さぶり現象となりました。
彼女の病名を知った時、私の中では、医学が何と言おうが関係ない!自分が命を賭けても彼女を救ってやる!という強い感情が燃え上がったのです。
そして私は、会社勤めを続けていたら彼女の世話が出来ないと考えて、サラリーマンを辞める決意を固めました。
私の中で沸き上がったエネルギーは仕事のほうで結果を出しました。しかし、仕事で得た収入を惜しみなく彼女に注ぎ込んで代替療法などを試してみましたが、結局、私の思いが女の病気を治すには至りませんでした。
10年間の自宅介護生活を経て、私たちは別れることになったのです。
また、妻の介護生活の途中で母が認知症になりました。私はダブルの病人を抱えてしっちゃかめっちゃかになった時期がありました。
その母は老人ホームに入所させましたが、昨年の暮れに亡くなりました。
妻と別れて、さらに母が亡くなった時、それは今まで自分が必死になって守ってきたものが私の目の前から消滅した瞬間でした。
自分が守ってきたものが無くなって何が残ったのか?
あの頃頑張っていた自分が本当にやりたいことをしていた自分だったのかどうかと考えると、それは疑問です。
しかし、それをやり切れた自分のエネルギーに対して自信を持つことができました。
今まで頑張ったのだから、自分に対するご褒美として、今度は頑張らなくてもやりたいことをやれて楽しく生きられる人生を自分に送らせてあげたいと思っています。
ただ、その一方では、自分が命を賭けても守りたいと思えるものを持てる人生というのは素晴しいとも感じているのです。
他にも、昨年は自分の感情が揺さぶられる体験をいくつも重ねた年でした。
そのうちの一つが夏の参議員選挙でした。
私は医療大麻の解禁を政策に掲げていた高樹沙耶さんを全力で応援しました。
しかし、応援活動をやっていくうちに、同じ理想を持つ仲間だと思っていた人たちが高樹沙耶さんではなく対立候補を支援していたり、また、当然に自分と連動して動いてくれるだろうと思っていた人が自分の立場を守るためなどの理由で表立って動いてくれなかったりといったことが表面化し、私は苦い思いをしたのです。
私はこのような時、もちろん裏切られたと思った相手に対する残念な感情は出てくるのですが、その後で必ず「その出来事によって自分の魂が体験したかったこと、学びたかったことは何だったのか?」を考えることにしています。
実際問題として、私が選挙で高樹沙耶さんを応援した動機には、単に世の中のためというだけではなく、もし医療大麻があったならば自分の妻や母を病から救ってやることが出来たかもしれないという私情がありました。最初からそのように自分できちんと受け入れていれば、他人がどうかなんて自分の考えや行動に影響しないはずでした。
昨年に私が体験した揺さぶりはこれだけではありませんが、それらの体験を経て自分が今思っていることは以下の通りです。
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本当に自立している人は、他人に振り回されることがない。
他人に誹謗されようとも、裏切られようとも、他人がどう考えようとも、自分が正しいと確信をもっていることをやり抜けば良いのだ。
今まで自分がやってきたことは、果たしてそのような動機に基づいたものだったのだろうか?
今まで自分が、相手のため、世のためと考えてやってきたことは、実は自分自身がその行為に依存していただけではなかっただろうか?
これからは、相手も楽しくなり、自分も最高に楽しくなることだけを選択してやっていこう。
これからは、主役と脇役という区別の無いグループを構築していこう。全員がその場その場の主役だ。
これからは、そういう気持ちを分かち合える仲間を見つけていこう。
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人は幾つになっても、生きている限り体験の旅を続けます。
私も今まさに、転換期の到来を体験しています。
(やしろたかひろ)