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子供の頃に出会った雑木林の生物たち[神奈川→福島]

子供の頃に出会った雑木林の生物たち[神奈川→福島]

春一番、春二番、春三番といった言葉が天気予報で聞かれ、春が待ち遠しくなってきました。
思い起こせば幼き頃、私は色々な植物たちや動物たちと出会って心を躍らせていました。
今日はそのような生物たちの話です。私の子供時代の記憶だけで書いてみます。


私が物心が付いた頃に住んでいたのは、相模原市(神奈川県) の大沼という地区でした。
その一帯は相模野とも言われ江戸時代まで原野が広がっいた地区で、当時はまだその面影を残しており整備されていない雑木林が点在していました。
その当時の私の記憶の中でも鮮明な記憶として残っているのが、家の中に居ても聞こえてくるセミの鳴き声でした。
日中に聞こえてくるのはミンミンゼミ。ミンミンゼミは当時の私の心をハイにしてくれていたように思います。
それが夕刻になってくると、ヒグラシの涼しげな鳴き声に変わるのです。
ミンミンゼミとヒグラシの鳴き声のコントラストが何とも言えない癒しの音でした。あの頃私は、CDなんか無くても毎日1/fゆらぎを聞いていたのです。
セミの声の記憶と庭先で花火で遊んでいた記憶とが相まって、心地良い夏の風物詩の記憶として、今でも私の心の中に深く刻み込まれています。

 


家のそばでアリの大行列を見ました。10メートル以上に渡って数えきれないほどの数の真っ黒なアリの集団移動です。
餌を見つけたアリが協力してそれを巣まで運ぶ行為らしいのですが、私が見ていた行列は太くて幅が10列ぐらいはあったように記憶しています。それを何度か見ました。アリたちにとってよほど良い餌がある場所だったのでしょう。

アリジゴク

そのアリを捕食するアリジゴクという変わり種の生物もいました。ウスバカゲロウの幼虫で、ウルトラマンに登場する怪獣、アントラーのモデルです。
家の軒先など乾いた柔らかい土のある所に棲み付いて、落とし穴を作って地中で待ち構え、その穴にアリが落ちてくると捕まえて餌にします。
ここに落ちたアリは必死に這い上がって逃れようとしますが、アリジゴクは下からアリを目がけて砂を掛けて這い上がらせません。
それにしても、生まれたばかりの幼虫がなぜそのような知恵を持ってるのでしょうか。きっと生まれる前から知っているのでしょう。宇宙の神秘。
落とし穴の側面を植物の茎などで突くと、獲物が引っかかったと思い込み奴が出てくるので面白かった。

ナナホシテントウ

夏になって自宅のすぐそばの林に入れば、カブトムシやクワガタ、コガネムシ、カマキリに至るまであらゆる昆虫が取り放題でした。
後にカブトムシやクワガタがショップで売られてるのを見た時には不思議に思いました。
セミは逃げ足が速いのでなかなか捕まえることが出来ませんでしたが、夜に家の窓を開けると飛び込んで来ることがたまにありました。
中でも可愛かったのはナナホシテントウでした。ナナホシテントウは良いテントウムシで、ニジュウヤホシテントウは悪いテントウムシだと大人たちに教えられていた記憶があります。ニジュウヤホシは作物を食い荒らす害虫らしいです。

キイチゴ

雑木林は色々なものが見つかる宝箱でした。
可愛らしいスズメの雛が巣から落ちているのを見たことがあります。
栗の木もあったし、タケノコもありました。キイチゴは美味しくて友達と一緒によく採って食べていました。私の父はフキを採ってきて、家族みんなでそれを茹でて醤油を掛けて食べたことがあります。
あと、幼稚園のイベントでキノコ狩りがあり、みんなで林の中に入らされたのを記憶しています。


相模原に住んでいたのは私が6歳の時までで、その後は家の事情で福島の農村に移り住みました。そこがまたワンダーランドでした。
民家が少なく電灯の明かりが少なかったので、夜空がとてもきれいでした。満天の星をはっきりと見ることが出来ました。私は子供心に、北斗七星の形にはいつも魅了されていました。

相模原で印象的だったのはセミの鳴き声でしたが、こっちは鳥。
低音でへんちくりんな歌を歌っている鳥の鳴き声を毎朝聞きました。後でそれがキジバトだったということがわかりました。


ヘビイチゴ

一人で林の中に入り、生まれて初めて野生のキジに遭遇した時は衝撃的でした。キジが地面を歩いているところを見たのですが、桃太郎の絵本に描かれていた絵そのまんまでした。尾が長く、想像していたよりも大きかったので驚きました。
シーズンになると色々な種類のトンボがいました。トンボの交尾は毎日のように見ていました。
家の周りや川辺りの土手などには、ホオズキやドクダミ、ヘビイチゴ、シロツメクサ、アザミ、タンポポなど多くの植物が自生していました。昔はあのあたりに大麻も自生していたそうです。

繭

自宅のそばには親族の家があって、当時そこで養蚕業をやっていました。私は蚕(かいこ)をなかなか触ることが出来なかったのですが、大人たちがやっているのを見ているうちに手伝うようになりました。
真っ白な蚕はモスラのモデルですね。桑の葉を食べてさせているうちにピンク色を帯びてきます。ボディーの色が変わることが繭(まゆ)を作ろうとしているタイミングのサインで、それらの蚕がより分けられて紙で作られた格子状の枠型に移されます。
蚕は枠型の上に無造作に置いても、自分で移動して一匹ずつ行儀よく枠の中に納まります。そして口から糸を吐き出して繭を作るのです。仕上がった繭は光沢を帯び真っ白で美しい。これが絹糸になります。
卵とは違い繭の中には栄養分が無いはずなのに、蚕はその中で飲まず食わずでどのような原理で成虫へと成長していけるのでしょうか。それを考えると不思議です。やはり宇宙の神秘。

しいたけ

別の近所の家ではシイタケの原木栽培をしていました。私はドリルで穴が開けてあるコナラの丸太にハンマーを使ってシイタケ菌のペレットを埋めていく作業を手伝いました。
その作業をしている大人たちの中には、ハンマーがうまく使えずペレットを潰してしまうような人もいたのですが、父が大工でハンマーの使い方を教わっていた私は器用に作業をこなしました。
私は小学生の時に養蚕とシイタケ栽培の体験をしたのです。

殆んどどの家にも柿の木があって、家によっては干し柿にするところもありましたが、それらを出荷するわけでもなく、毎年秋になると食べきれない量の柿がありました。
後で、東京のスーパーで柿が1個ずつ高値で売られているのを見た時には、カブトムシの時と同様に不思議な思いがしました。
あの頃の私は、トマトやキュウリやナスやタマネギなどもタダでもらって食べられるものだと思っていて、店に行って買うものだとは思っていませんでした。
当時の農村には自給自足経済がまだ残っていたように思います。

また、あのあたりでよく見かけたのは野犬です。犬の捨て場になっていたのでしょうか。私は野良犬を手なづけては親を困らせている子供でした。
私が最も仲良くなった野良犬は、おそらくセッターという犬種だったと思います。当時の自分の体ほどの大きさがある大型犬のオスと私は意気投合したのです。彼は私が居なくなると遠吠えをして私を呼び、私が現れると飛び跳ねて喜びを表現しました。

セッター

もともと彼は猟犬として飼われていたが、老犬になって役に立たなくなったためにご主人様に捨てられたらしい。
私がなぜそれを知ったのかというと、……実は、彼が自分でそう言いました(笑)。当時の私は犬と会話することが出来たのでした。
そして、彼は今までとても寂しかったのだと。
当然の流れで彼は私の家の庭に住みつくようになりました。かわいそうな野良犬なので自宅で飼いたいと親に懇願しましたが、貸し家住まいだったためそれは叶わず、私が小学校に通っている間に役場の人が引き取りに来て悲しい別れとなったのです。後から聞いたその場に居合わせた大人の話によれば、役場の車に乗せられる時、彼はずっと遠吠えをし続けて私を呼んでいたそうです。
役所に引き取られた野犬の末路がどうなるのか子供の私でも薄々分かっていたので、それは愛する者を救ってやることが出来なかったという私の子供時代のひとつのトラウマ体験になりました。だから、小学校の卒業文集で私が書いた作文のテーマは動物愛護だったのでした。


私は幼き日に、今の子供たちにはあまり体験出来ないような貴重な体験を重ねてきたように思います。
最近は、田舎に住んでいたとしても子供たちだけで雑木林や川辺りで遊ばせるようなことは危ないからと言って親がなかなか許さないのではないでしょうか。
また、今は住宅地のそばに雑木林というもの自体が少なくなっているのではないでしょうか。大概はきれいに草木が間引きされ、遊歩道が整備されていたりで、昔のように多種多様な生物が育つような環境ではなくなっているでしょう。

(やしろたかひろ)



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