常識とストレス
常識とストレス
病気や原因不明の体の不調(不定愁訴)の多くは、精神的なストレスが引き金になって起こります。
例えば、感情をブロックし自分を抑圧している人は癌になります。
内面に葛藤を抱えている人はアレルギー体質になります。
いずれにしても、ストレスの本質には「常識」による精神的支配があります。
私たちの頭の中には、子供の頃から家庭や学校や社会生活で教えられてきた慣習や道徳や規則が、守るべき常識として刷り込まれています。
そして私たちは、常識の中で生きていれば安心だと思い込んでいます。
ところが、私たちの潜在意識はこれらの常識に対して違和感を覚え、それがいつの間にかストレスとなっているのです。
精神世界にフォーカスしている人たちは、常識にしがみついてはいけないことを知っています。
しかし、学校教育をまともに受けていなければまともな仕事にありつけないし、道徳やルールを守らなければ人間関係や社会との関係をうまくやっていけないし、法律を犯せば罰せられると言うように現実が立ちはだかり、理想と現実との狭間で苦しみます。
現代のスピリチュアル・リーダーたちは、この問題に対してほとんど答えていません。
だから、人は精神世界にフォーカスすればするほど、理想と現実の整合性を取ることの困難さに直面して悩み、最後には投げやりになってしまうことがあります。
ある意味では、この問題に対して答えを出そうとしているのが新興宗教であると言えるでしょう。
新興宗教は独自のコミュニティーを作り、世の中の現実から逃げ出したい人たちをそこに勧誘します。
ところが、そのコミュニティーには一般社会とは別の支配者がいるのです。
教祖と呼ばれる支配者が天や神の名を語ってその中だけで通用する新たな規範やルールを作り、そのメンバーは新しい常識によって支配されていきます。
そのような新興宗教の常識がエスカレートした時には、世の中の常識に対して戦いを挑み、カルト化していくようになります。常識が常識と戦うのです。
釈迦は「人生とは苦である」と説きました。
人間は、物質的な肉体をまとって生きている限り、生老病死の苦労から免れることは出来ません。
人生の中では、自分の意思だけではどうすることもできないことが沢山あるのです。
しかし、それも魂の選択。私たちの魂は意味の無いことはしません。この世に生を受けてあえて不自由な現実の中で生きる体験をすることこそが、私たちの魂の目的だったのです。
スピリチュアルは人を自立させますが、新興宗教は人を依存させます。
スピリチュアルは多様性を認めますが、新興宗教は一つの価値観を押し付けます。
スピリチュアルは現実を受け入れますが、新興宗教は人を現実から遠ざけます。
私たちの生きる目的は、心は自由に開放しつつ、ままならない現実を受け入れること。つまり、融通無碍の生き方を目指すことです。
世の中のルールや常識に対して嫌悪するのではなく、自己の精神性を高めるための教材としてそれらを受け入れる。理想と現実にギャップがあっても、そのギャップを楽しみながら受け入れる。
自己の自由な精神の解放を目指しながら、現実社会と自分との関係性を壊さずに生きていくという意味で、真のスピリチュアリティーには宗教よりも高度な意識が要求されます。
謙虚な人は、それが容易に出来るほど自分は高度な意識を持っていないと言うでしょう。
そのように考える人は正常です。現実を受け入れることが重要であるという前提から言えば、自分は不完全であるという現実を受け入れること自体に大きな意義があるからです。
むしろ、自分は完璧な人間だ、何も問題が無いと高をくくっている人の方が問題でしょう。もし完璧で問題が無いとしたら、その人はとっくに地球上から消滅しているはずだからです。
自分はこうあるべきだ、と決めつけるからストレスになります。思い込みは個人の中で作られた常識です。
そして、自分に対する決めつけの強い人ほど、自分の価値観と違う相手を見ただけで腹が立ちます。
自分に対しても他人に対しても人間という存在の不完全性を認めた時点で、地球人としてあなたは高度な意識を持っていると言って良いのです。
(やしろたかひろ)