真相!本能寺の変 中山康直氏が臨死体験で見た話を検証する
教科書的に言うと、本能寺の変は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が主君である織田信長に対して謀反を起こし、京都の本能寺に滞在していた信長を襲撃し、自害に追い込んだクーデタであるとされています。
しかし、光秀が信長を裏切った理由が定かではなく、本能寺の変の真相については様々な異説があります。
その中でも、中山康直氏が臨死体験で本能寺の変を見たという話が特異な内容になっています。
その内容の要点を以下にまとめます。
中山康直氏の説
※ポイント部分を太字にしてあります
織田信長は第六天魔王を自称していた。
仏教の中に、世界の中心にスメール山がそびえ立っており、そのさらに上空に第六天魔王が鎮座しているという思想がある。
スメール山は、中国経由で日本に入ってきた時に須弥山(しゅみせん)と言わるようになった。
このように仏教に精通していた信長は、数多くの僧兵が存在し戦っていた当時の日本の仏教界を見て憂い、本物の仏教を芽生えさせるために比叡山の焼き討ちを実行したのであった。
そのタイミングでイエズス会の宣教師ルイス・フロイスがやってきて、信長に南蛮帽子やバナナなどの舶来物をたくさん奉納する。
新しいものが大好きだった信長はフロイスから西洋的な価値観やキリスト教を学び、その教義に新鮮さを感じてキリスト教を擁護し、次第に日本にキリスト教が広まっていく。
信長は、宣教師が奴隷として連れてきた大柄な黒人男性「ヤスウェイ」という人物を譲り受けて、彼を日本名で「弥助」と名付けて召し抱えることになる。
イスラム教徒だった弥助の影響で、信長はイスラム教の思想に関心を持つようになり、次第にキリスト教擁護の意識がが薄れていく。
信長がイスラム教に関心を持つことは、日本にキリスト教を広めようとしていたフロイスらにとって無視できないことだった。
そこで、妹がガラシャで部下にもキリシタン大名がたくさんいた明智光秀の元にイエズス会の幹部3人が派遣され、信長暗殺計画が提案される。
信長亡き後には光秀自身が日本のトップになるという提案であったが、光秀は過去に愛宕大権現の前で終生信長に仕えると誓いを立てていた人物であり、彼が信長を裏切るはずはなかった。
怒った光秀は、イエズス会幹部3人の首をその場ではねた。
しかし、そのイエズス会の企みを信長に知られてしまうとキリスト教徒である自分の身内までも信長から弾圧されかねないと危惧し、光秀はその出来事を信長に話すことをためらっていた。
信長暗殺のために本能寺を囲んでいた1万人と言われている軍隊は日本人でなかった。
イエズス会はキリスト教の布教のための世界戦略の一環として背後に軍隊を備えていた。それはフィリピンに駐留しており、その外国人部隊が本能寺を取り囲んだのである。
その時に光秀は「敵は本能寺にあり」と声を上げ、信長からの「中国地方の秀吉のほうに加勢に行け」という命令に背いて、本能寺で危機に直面していた信長を助けに向かったのである。
しかし、本能寺で信長の亡骸が見つかっていない。
実は、信長はこの企ての情報を事前につかんでおり本能寺では死んでいなかった。本能寺に影武者を立てて入れ替わり死んだことにして、本物の信長は大陸へ渡ったのである。
日本を平定しようと「天下布武(てんかふぶ)」を掲げていた信長だったが、フロイスから献上されていた地球儀を見て、これまで知り得なかった世界に刺激を受け、いつしか大陸へ思いを馳せ憧れるようになっていたのだ。
この事件を機に信長は「亡命」の形で大陸へ渡る。
信長の意識に入り込んだことがあるという木内鶴彦氏の話によると、その時代のバチカンの枢機卿の名簿に「ODA」という名前があるらしいので、信長は最終的にローマへ行ったのではないかと考えられる。
出典: 中山康直著「瀬織津姫システムと知的存在MANAKAが近現代史と多次元世界のタブーを明かす」及び講演内容
中山康直氏の話は辻褄が合っているのか
中山康直氏の話の中でまず疑問が生じるのは、2010年頃の時点で彼は自分の過去生が織田信長と坂本龍馬であったと明言していたことです。
しかし、後に発刊された著書の中では臨死体験によって信長や龍馬を上空から客観的に見たという話に変更されており、自己の過去生とはしていません。
信長が第六天魔王を自称していたという逸話は、ルイス・フロイスが日本布教長であったフランシス・ガブリエルに宛てた書簡の中にあった記述が元になっています。
それは、武田信玄が信長に書状を送った際に自分の名を「天台座主沙門信玄」と署名したのに対抗して、信長が「第六天魔王信長」と署名して互いに威嚇をし合ったという話です。つまり、信長は本気で自分を第六天魔王と名乗っていた訳ではないのです。
第六天魔王は、仏教における強大な魔王で仏道修行を妨げる存在とされており、迷いの世界の一つである欲界(食欲・性欲・物欲など欲望に支配された世界)に存在し、その最高位である第六天に居を構えているとされています。
つまり、仏教の世界観の中で第六天魔王とは中山氏の認識とは正反対の存在であり、第六天魔王を尊ぶことが「本物の仏教」ではありません。
「本物の仏教」を日本に芽生えさせるために比叡山の焼き討ちをした信長が、そのタイミングでキリスト教に興味を持ったという話も、辻褄が合いません。
キリスト教の基本的な教え(唯一神信仰)と仏教の教えは大きく異なり、相容れない部分があります。ザビエルは「仏教は偶像崇拝であり、キリスト教とは相容れない」と主張し、布教活動の中で仏教を批判していました。
信長が比叡山の焼き討ちを行なった理由は、延暦寺が信長の対抗勢力である浅井・朝倉との結びつきが強かったからです。信長の家臣・太田牛一が書いた『信長公記』によると「浅井・朝倉との関係を断てば攻撃しない」と通告したが、延暦寺は承諾しなかったとされています。延暦寺が信長の敵方との関係を断てば「本物の仏教」が芽生えるという理屈は成り立ちません。
信長が舶来品や新しいものが好きな性格だった可能性は高いと思われますが、中山氏の言うように信長は南蛮帽子やバナナなどの舶来品をたくさんもらって嬉しく思い、さらにキリスト教が好きになったから日本でのキリスト教の布教を認めたわけではありません。
信長は「神仏を恐れぬ天下人」として知られており、宗教に対してあまり執着しない合理的な考えを持っていたと伝えられています。彼はどの宗教に対しても「実用性」や「利益」の観点で接しており、彼がキリスト教の布教を認めた理由は、政治的・経済的なメリットを考慮したためと言われています。
彼は武装化していた仏教勢力(比叡山延暦寺や一向宗本願寺)が敵方の戦国大名と結びついていたことを強く意識していました。覇権争いの中で彼らの支配力を弱めるためにキリスト教を利用しようと考えた可能性があります。
また、イエズス会はポルトガルやスペインと深い関係を持っていました。当時、日本はポルトガルとの貿易によって鉄砲・火薬・西洋技術などの先進的な武器や商品を入手しました。
中山康直氏は、信長がイスラム教の思想に傾倒していったためにイエズス会による暗殺計画が企てられたと主張していますが、信長は生涯を通じてキリスト教を禁止していません。
さらに、愛宕大権現の前で終生信長に仕えると誓いを立てていた明智光秀が信長を裏切るはずはないと主張されていますが、多くの戦国武将が神社を信仰していたのは主に戦勝祈願のためであり、そこで同盟の誓いを立てるのは儀礼のようなものでした。
戦国時代には、神社で誓いを立てた家臣が主君に対して謀反を起こすことは珍しくありませんでした。だから下剋上の時代と言われているのです。
見方を変えれば、神道には善も悪も無く、人間界レベルで立てた誓いが変わることも容認するほど大らかな信仰であるということが出来ます。
中山康直氏は、明智光秀がイエズス会からの提案を拒否し、イエズス会幹部3人の首をその場ではねたと話しています。
しかし、もしそのようなことが起きていたらイエズス会側が黙っているはずもなく、イエズス会は信長よりも先に光秀の命を奪ったはずです。
また、中山氏は、本能寺を取り囲んだのはフィリピンに駐在していたイエズス会の軍隊だったと話しています。
当時は航路しかなかったので、フィリピンからの上陸地点はおそらく九州だったと思われますが、外国人の武装集団が大挙して日本へ上陸すれば各地で大騒ぎになり、京都へ向かう道中で戦国大名の役人や軍と睨み合いが起きる可能性もあります。
もし、イエズス軍の船が若狭湾に乗り付けていたと仮定しても、当時の若狭国は信長の家臣・丹羽長秀が統治しており、大陸から来る海賊や敵対勢力による侵攻を防ぐため一定の警備が行われていたと考えられます。
以上のことから、外国人の軍隊が京都の本能寺まで秘密裏に移動することが不可能に近いことは容易に想像出来たはずです。
中山康直氏は、明智軍が亀山城を出発した時間と本能寺の変が起きた時間(午前4時頃)とが辻褄が合わないと主張しています。
出発時間については、江戸時代に書かれた軍記物である『明智軍記』に「午後8時頃に亀山城を出発した」と記されているのが根拠となっており、これは創作が含まれている書物であるため完全な信頼性はありません。
太田牛一が著した『信長公記』には、「明智軍は夜間に亀山城を出発し、本能寺に夜明け前に到着した」とだけ記述されており具体的な時刻は書かれていません。
亀山城から本能寺までの距離は約40km。6月上旬の京都の日の入り時間は19:00頃、日の出時間は4:40頃です。その間は約9時間半あります。
私は若い頃に、ほぼ平地ではありますが40kmの距離を途中で食事を挟み約6時間半で歩いたことがあります。本能寺までの道中には山もありますが、当時の屈強な男たちであれば、前日の夜に出発して翌日の夜明け前に到着することは不可能ではなかったでしょう。
また、光秀が自分の行動計画を外に知られないようにして本能寺へ向かったとすれば、そもそも諸文献に記載された情報が正しいのかどうかという問題もあります。本能寺を奇襲するための時間帯としては夜明け前のほうが適切だったと思われますが、亀山城を出発する時間が夜である必要性は見出せません。
中山康直氏は、信長がイエズス会の計画を事前につかんでいたと主張していますが、もしそうならば、名立たる戦国大名のひとりであった信長が自分の軍を招集して敵と戦わずに逃げた理由が不明です。
その時、豊臣秀吉と毛利氏との戦いは秀吉の勝利でほぼ決着がついていました。最後のトドメとして光秀の軍を秀吉の援軍として中国地方へ出兵させるのではなく、イエズス軍を迎え撃ちにすべく本能寺の近くに待機させておくべきだったでしょう。
また、信長がイエズス会が自分の命を狙っていることを良い機会と捉えて、秀吉や光秀を毛利氏との戦場に送り込んだままにしておいて彼らを裏切り、かねてから自分が憧れていた大陸へ密かに渡るという姑息な手段を取る性格だったとも思えません。
ただし、もし光秀が裏切っていたとすれば、遠方で戦をしていた秀吉が助けに来るこは不可能なので海外へ亡命した可能性も浮上します。
中山康直氏は、信長は大陸へ渡り、ローマへ向かったと話しています。そして、最終的にはバチカンの枢機卿になったのではないかと。
しかし、ローマはルイス・フロイスと密に連絡を取り合っていたイエズス会の本拠地です。イエズス会はローマ教皇に忠誠を誓う修道会の一つです。中山氏がイスラム教に傾倒していたと考えている信長が、なぜイスラム教の地ではなく自己の命を狙った敵の本拠地へ少人数で向かうのでしょうか。
また、自由奔放な性格の信長が、禁欲を強いられる聖職者となったということも考えられません。まして有色人種に対して偏見が持たれていた当時のヨーロッパ社会の中で信長が白人たちの奴隷になることはあれ、教皇の最高顧問である枢機卿に昇り詰めたということは考えられません。
枢機卿の名前は、聖職者の公式な記録として、バチカンやカトリック教会の資料に保存され公開されています。これらのリストには「ODA」という名前は記載されていません。
本能寺で信長の亡骸が見つからなかった理由について。
当時は現代のように事件後すぐに消防車や救急車がやって来て、さらに警察による現場検証が行われるというようなことはありませんでした。
人が見ていない隙に、誰かが信長の亡骸を外へ持ち出すことは容易なことだったと思われます。
もし、中山氏の言うように光秀が信長を救出するために本能寺へ向かっていたとすれば、光秀の軍勢が信長の亡骸を弔うために秘密裏に持ち出したと考えるのが自然でしょう。
伝説の域を出ませんが、織田信長が埋葬されたのではないかと言われている寺はいくつかあり、もし光秀が密かに信長の遺体を回収し埋葬したとすれば滋賀県の長興院ではないかという話もあります。
明智光秀が本能寺の変を起こしたのかどうかという真相については分かりません。
しかし、中山康直氏の話は理論的に考えて矛盾点が多すぎます。
伝説の域を出ていませんが、信長の側近であった森蘭丸が光秀の不審な行動に気づき、それを信長に進言していたが、光秀を信頼していた信長はそれを聞き入れなかったという逸話もあります。
追記 (2025.2.14)
この記事を読まれたある方から情報をいただきました。
本能寺の変で織田信長を襲ったのは、やはり明智光秀の軍だった可能性が深まりました。
事件の直後に光秀が細川藤孝・忠興あてに直筆で書いた手紙が残っていたらしいです。その話が昨年の秋にテレビ報道されていました。
それは細川氏に対して自分と同盟を組んで欲しいという要望書で、その暁には天下人となった私はあなたに摂津国の支配権を与えるという内容でした。
しかし、細川氏はその時すでに秀吉と同盟を組んでいたため、光秀の野望は破られたという顛末です。
この手紙からは、本能寺の変を起した光秀のバックにイエズス会があったかどうかまでは分かりません。
※明智光秀直筆の手紙に「本能寺の変」の理由 (2024年11月25日 ANN)
https://youtu.be/9vTco-e6RDI?si=3QAgrPr0CIa4YcMw
本能寺の変の真相は何だったのか
東洋経済オンラインのWebサイトにこのような記事があります。
「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断
―海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる―
https://toyokeizai.net/articles/-/411584
『最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていた。
日本人の少年少女が、ポルトガル商人に連れられてインドやアフリカ、欧州、ときには南米にまで奴隷として売られていた。』
世界史の中で、アジアとアフリカの多くの地域が白人勢力によって植民地にされた時代は15世紀~17世紀の大航海時代と、19世紀~20世紀初頭の帝国主義時代の2度ありました。
信長が生きていた時代は大航海時代に入ります。この時に始まった植民地支配が、後の帝国主義時代にヨーロッパ列強がアジア・アフリカへ進出する基盤となりました。
信長が生きていた時代にポルトガルやスペインが世界進出をしていた証拠となる文献はいくつもあります。
『東方諸国記(Suma Oriental)』(1515年頃)
『インド誌(Décadas da Ásia)』(1552-1563年)
『ルソタニア人の歌(Os Lusíadas)』(1572年)
『西インド諸島の歴史(Historia de las Indias)』(1527-1529年)
『フィリピン諸島の歴史(Historia de las Islas e Indios de Bisayas)』(1668年)
『新世界誌(De Orbe Novo)』(1516年)
『トルデシリャス条約(Tratado de Tordesillas)』(1494年)
そのような勢力が世界を支配するための道具として宗教が利用されてきました。
宗教の布教がうまくいけば、その国の民衆は政治的な権力者よりも宗教的な指導者の言う事を聞くようになることが多いからです。
そして、キリスト教圏の人々は「神に似せた白人だけが人間である」という思想を持っていました。それを正当性として、彼らは侵略に成功したアジア、アフリ地域の有色人種たちを奴隷化し、搾取、虐待を繰り返したのです。
※参考
大東亜戦争の真実 白人たちにとって私たち有色人種は人間ではなかった。
中山康直氏は「イエズス会はキリスト教の布教のための世界戦略の一環として背後に軍隊を備えていた」と説明していますが、「当時のヨーロッパ人は世界を植民地化する目的でキリスト教の宣教師と軍隊をアジアへ送り込んでいた」というのが正しい歴史認識です。キリスト教は目的ではなく手段に過ぎませんでした。
彼らがアジアの人々に対して好意でキリスト教の布教をしていたというような誤った解釈をしてしまうと、2度の世界大戦が勃発した近代史の解釈まで誤ってしまいます。
彼らが日本を乗っ取るためにまず送り込んだのがカトリック原理主義であるイエズス会の宣教師、フランシスコ・ザビエルでした。
ザビエルは貿易と引き換えに日本でキリスト教の布教活動をすることを認めるよう信長と交渉し、信長は彼らが持ってきた鉄砲などに興味を持ってそれを承諾したのです。
しかし、のちに信長はイエズス会の不穏な動きに気づき、イエズス会に対して反抗的な態度を取り始めたのたのではないかと私は推理しています。
ルイス・フロイスは日本でのキリスト教布教の状況だけではなく、戦国大名の動向、織田信長の政治方針などをローマのイエズス会本部に詳細に報告しており、それが『日本史(Historia de Iapam)』『フロイス日本年報』といった文献として残されています。
当時ポルトガルやスペインが世界各地で布教と同時に軍事侵略を行っており、スペインはフィリピンを植民地化し、ポルトガルはゴア(インド)、マカオ(中国)を拠点にアジア進出を進めていました。
信長は、途中でそのような事実を知った可能性があります。
イエズス会が黒人の奴隷を日本へ連れてきたという史実から考えれば、信長の時代にすでに日本人が奴隷として海外へ連れ去られていた可能性も否定できません。
本能寺の変の後、フロイスはローマのイエズス会総長宛てに提出した報告書の中で「信長は神の意思によりこの世から消滅した」と記しています。信長の失敗は彼らを早期に日本から追放しなかったことでした。
信長亡き後、ようやく秀吉がバテレン追放令を出し、続いて家康は鎖国を実行しました。
その頃の日本はすでに独自で鉄砲を量産するようになり、外国と比べても見劣りしない軍事力を持っていました。
八百万の神を信仰する日本人は、外来の思想を無下に排斥するような民族ではありませんでした。
秀吉、家康は、たんにキリスト教を禁止しようとしたわけではなく、白人たちによって日本が乗っ取られることを阻止しようとしていたのです。
徳川幕府は当時侵略者としての色が濃かったポルトガルを排除し、オランダとの交易を続けました。
正しい歴史認識を持たなければ、現代を見誤る
映画やアニメにおいて戦国武将がヒーローのようなイメージで描かれることが多く、戦国時代や織田信長の存在が歴史のロマンであるかのように捉えられている面が大きいと思います。
しかし、現実には昨今イスラエルとガザとの間で行われているような悲惨な出来事が日本の国内で起きていたということであり、その当時生きていた民衆にとってみればまさに地獄絵図の世界だったでしょう。
「正しい仏教を芽生えさせる」という大義の元に、子供まで殺した比叡山の焼き討ちを正当化してはいけない。
それは、「正しい宗教を広める」という大義の元に、かつてスペインやポルトガルがアジア・アフリカ・アメリカ大陸に進出し植民地化して先住民たちを虐待・虐殺したことと等しい。
「天下布武」という大義の元に、武力をもって覇権争いをしていたことを正当化してはいけない。
それは、「世界の警察が悪の枢軸を退治する」という大義の元に、軍産複合体がアメリカの言う事を聞かない中東諸国に武力を持ち込んだことと等しい。
聖徳太子にしても広い意味で言えば戦国武将の一人であり、彼も軍を率いており、蘇我氏に加勢して縄文由来の八百万の神を守るために仏教公伝に反対していた物部氏を滅ぼしたのである。中山康直氏の「仏法の加護のもと、武力をもって物部氏を倒した」「聖徳太子は宇宙から派遣された使者であった」という中山康直氏の論評は適切ではない。
Q: 仏教には、正しい仏法を広めるために人を殺しても良いという思想はありますか。
A: 仏教の根本的な教えの一つに「不殺生」があり、これはいかなる理由であっても命を奪ってはいけないという戒めです。
仏教の開祖である仏陀は「暴力や殺生によって悟りは得られない」と説いています。
仏教の根本的な教えとしては、暴力を否定し、慈悲と思いやりを持つことが最も重要視されます。たとえ仏法を広めることが目的であっても、暴力や殺生を伴う行為は決して正当化されません。(チャットGPT)
Q: 仏教で末法の世とは何ですか。
A: 末法の世とは、仏教の歴史観において、仏の教えが正しく実践されなくなり、世の中が乱れる時代のことを指します。
日本では平安時代後期から鎌倉時代にかけて、末法思想が広まりま浄土宗や日蓮宗が台頭しました。特に、戦乱や災害が多発した時代には、「今こそ末法の世だ」と考えられることが多かったです。(チャットGPT)
倭国大乱や戦国時代が、日本における末法の世だった。
あの時代を、『鬼滅の刃』や『スターウォーズ』のようなエンタメの世界と一緒に捉えてはいけない。
客観的に見て、あの時代に何が起きていたのか。正しい歴史認識を持たなければ、現代を見誤る。
敵を殺せば宇宙縄文が完成するというような世界観は終わらせなければならない。
弥生時代以降続いた人と人とが殺し合う戦乱期を、縄文時代とは正反対の教訓と捉えて、私たちは本物のミロクの世を作っていかなければいけない。
(やしたろかひろ)
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