アセンションとは何か 弥栄-いやさかの会

女性性の時代とは

女性性の時代とは何か

「女性の長電話」とか、「井戸端会議」という言葉があります。女性で「一匹狼」と呼ばれる人は少ないように思います。男性に比べて、人との繋がりを求める傾向が強いのが女性のようです。
これからは女性性の時代に移行するといわれます。女性性の時代とは、いったいどんな時代なのでしょうか。

 農業は女性の適職だった

田園

日本人は、基本的に農耕民族です。今のように機械化が行なわれていなかった時代の農業は、きめの細やかさや人と人との協調性が求められる仕事でした。
したがって、本来、農業とは女性の適職です。
昭和の前半までは、毎年田植えのシーズンになると、今日は鈴木さんの田んぼ、明日は田中さんの田んぼ…というように、村の人たちが全員で協力し合って、輪番で田植えをしていたのです。

もしこのような農業を中心とした社会に弱肉強食的な男性原理がもちこまれて、協調性の無い人や、他人を蹴落とそうとするような人が増えたら、たちまち食糧危機に陥ってしまいます。
そのため、共同体の秩序を破った者に対する「村八分」という厳しい掟も生まれたのでしょう。

ただしそのような文化には男性の居場所がありません。女性の存在価値だけが高まって男性が無気力化してしまえば、種の存続の危機となります。
大きな意味でいえば、男性性と女性性のどちらが良い悪いということはなく、陰と陽とがうまくバランスを取り合って人類は発展していくのです。

そこで日本人は、男性に政治力を与えることによって陰陽のバランスを取るようになりました。
女性神であるといわれているアマテラスさまは、自らお隠れになることによって社会のバランスを保とうとしたのです。
そのことは、女性性の慣用さの現れでもあると思います。

 日本人は相手の性を尊重し合ってきた

石仏

ところが、欧米社会の女性解放論者などの間で、このような日本文化が「日本の家族には家父長制があり、男尊女卑であった」と、批判の対象にされてしまうことがあります。

昔の日本人に「男尊女卑」という概念があったでしょうか。
欧米で古くから男尊女卑という概念があったことは、欧米社会の中に男尊女卑が大きな問題として存在していたことを意味していると思います。
日本人は、差別ではなく男と女を明確に区別してきました。
それぞれ相手の性を尊重し、違いを認め合って、男性としての美しい生き方、女性という美しい生き方を重んじてきたのです。

もし日本人が男尊女卑だったとすれば、敵が攻めてきたときに男は女を盾にしたに違いありません。
ところが日本の武士たちは、妻や子供を守るために自分の命を捨てることを美徳としていたのです。
大和撫子といわれた日本の女性たちはそういう夫を愛するがために、主人に死なれたときには、自分も後を追ったり、仇を討ったりしてきたのです。
愛する者を守るために自分の命をも捨てるという日本人の気質が、男性原理を駆使する一握りの支配者によってうまく利用されてしまったのが、大戦時における神風特攻隊だったと思います。

 資本主義社会は男性原理

会議

歴史学者の会田雄次氏は、「日本という国が男性的気質を帯びたのは、外国から強い危機が感じられたときに限られる」と述べています。
日本がこれまで強い影響を受けてきた欧米、とくにアメリカの影響力から解放されるようになれば、日本の社会は変わってくるかもしれません。

資本主義社会というのは、男性原理にもとづく社会です。
「企業戦士」という言葉がありますが、弱肉強食の資本主義社会では、常に敵と戦っている必要があります。これは、男性の存在価値が大きく認められる社会です。
したがって、基本的に資本主義社会における仕事の性質は、女性にとって不適応です。
女性があまり幅を利かせすぎると、資本主義システムがうまく機能しなくなるという問題が生じてきます。
だから資本主義社会では、女性が男性によって排斥されることが多くなるのです。
さらに日本には、女性は戦(いくさ)をする要員ではない、という古くからの考え方がありました。

したがって女性の皆様は、わざわざ男性原理である資本主義システムの中で、無理に男性化(戦士化)して社会進出をされる必要はないと思います。
それよりも、女性の皆様はこれから来る女性性の時代へ向けで、母性を磨いておくべきでしょう。
戦士という存在が必要のない社会を創ることこそが、女性の皆様の役割なのではないでしょうか。

 民主主義は過渡期の考え方

民主主義

これから来る時代では、企業的な組織がなくなり、家族的な共同体(コミュニティ)が復活してくるでしょう。
民主主義というのも、ユートピアが誕生するまでの過渡期の考え方です。
共同体とは、独裁主義でもなければ民主主義でもありません。家族主義とでもいうのが適当でしょうか。

何でも平等だといって多数決で決めてしまうのが民主主義です。
しかし、理想的な家族像をイメージしてみてください。父親の役割、母親の役割、おじいちゃん、おばあちゃんの役割・・・というものがそれぞれ独立している家族なのではないでしょうか。
もし家庭の中で、今晩のおかずのレシピを何にするかということを、いちいち家族全員の多数決で決めたとしたら、お母さんの立場がなくなってしまうでしょう。
ある意味で、民主主義は横並び主義であり、個人の自立を尊重しない側面があるのです。

それぞれの違いを認めて、精神的な成熟度や知識・能力等の違いによって役割分担を行ない、役割の仕事については基本的にその人に任せてしまう。
そうすることによって相互信頼と自己信頼が確立し、自立した個人の集団が強いコミュニティとなっていく。
それが、これからの社会の成り立ちになっていくのではないでしょうか。

新しい時代にはこのような家族的なコミュニティがたくさん出てくるわけですが、構成員の違いによって、コミュニティごとに様々な個性を持つものになるでしょう。


素粒水

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