神との対話 -自然な感情 アセンション考【いやさかの会】
「神との対話」
五つの自然な感情
悲しみは自然な感情だ。悲しむことができるから、言いたくないときにも「さよなら」が言える。
人は何かを失う体験をしたとき、自分のなかの悲しさを表す(外に向かって押し出す)。愛する者を失う悲しみもあれば、コンタクトレンズをなくした悲しみもあるだろう。悲しみを表すことができれば、悲しみは処理できる。
悲しいときには悲しんでいいんだよ、と言われて育った子供は、おとなになったとき、悲しみは健全だと思える。だから、とても早く悲しみから抜け出せる。
「こらこら、泣いてはいけません」と言われた子供は、おとなになって泣きたいとき、苦しい思いをする。だって、泣くなと言われて育ったのだからね。だから、悲しみを抑圧する。
抑圧されつづけた悲しみは、慢性的なうつになる。非常に不自然な感情だ。人びとは、慢性的なうつのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
怒りは自然な感情だ。「ノー」と断るための道具だ。必ずしも無礼なものとは限らないし、決して他者を傷つけるものではない。
怒ることを許されて育った子供は、おとなになったときも怒りに対して健全な態度でいられる。だから、とても早く怒りから抜け出せる。
怒りはよくないものだと教えられて育った子供、怒りを表してはいけない、それどころか怒りを感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、怒りをうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた怒りは、憤怒になる。非常に不自然な感情だ。人びとは怒りのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
羨望は自然な感情だ。五歳の子供が、お姉ちゃんのように自転車に乗れるといいなと思う、その感情だ。羨望という自然な感情があるから、もう一度やってみたいと思う。もっとがんばろうと思う。成功するまであきらめないぞ、と思う。羨望を感じるのはとても健全で、自然なことだ。
羨望を表すことを許されて育った子供は、おとなになったときも羨望に対して健全な態度でいられる。だから、とても早く羨望から抜け出せる。
羨望はよくないものだと教えられて育った子供、羨望を表してはいけない、それどころか羨しいと感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、羨望をうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた羨望は、嫉妬になる。非常に不自然な感悄だ。人びとは繊妬のために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
不安は自然な感情だ。赤ん坊はみんな、不安を二つだけもって生まれてくる。墜落する不安と大きな音に対する不安だ。
ほかの不安はすべて学習された反応で、環境から学び、親に教えられる。
もって生まれた自然な不安の目的は、もうちょっと注意しなさいとわからせることだ。身体を安全に生きながらえさせるための注意。それは愛から生まれる。自分自身への愛だ。
不安はよくないものだ、不安を表してはいけない、不安を感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、不安をうまく処理するのに苦労する。
抑圧されつづけた不安はパニックになる。非常に不自然な感情だ。人びとはパニックのために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
愛は自然な感情だ。子供が正常に自然に、制限や条件をつけず、禁忌や気まずさなしに愛を表現し、受け入れることを許されて育つと、それ以上必要としなくなる。こんなふうに表現され、受け入れられた愛の喜びは、それだけで充分だから。
だが、条件や制限をつけられ、規則やしきたり、儀式や制約によってゆがめられ、管理され、あやつられ、抑えられた愛は不自然になる。
自然な愛はよくないものだ、愛を表してはいけない、それどころか愛を感じることすらいけないと言われて育った子供は、成人後、愛をうまく処理するのに苦労する。抑圧されつづけた愛は所有欲になる。非常に不自然な感情だ。人びとは所有欲のために人殺しをしてきた。戦争が勃発し、国が滅んだ。
自然な感情が抑圧されると、不自然な反応と対応が生じる。たいていのひとは、最も自然な感情を抑圧している。だが、自然な感情はあなたがたの友人だ。贈り物だ。
経験をきざみ出す神聖な道具だ。あなたがたは、生まれたときに与えられたその道具を使って、人生をうまく渡っていくべきなのだ。