戦前・戦中に生まれたパラオと日本との深い絆【いやさかの会】
スピリチュアル社会学
スピリチュアルとは生活すること。私たちが三次元と認識しているこの世に生きていること自体が、すでにスピリチュアルな状態です。この現実社会をしっかりと生きることで、人は霊的にも成長していきます。
戦前・戦中に生まれたパラオと日本との深い絆
昔、日本が統治していたパラオは、今でも大の親日国です。
私達が学校などで教えられて信じ込まされている日本の歴史とは、戦争に勝った外国が作った歴史です。
しかもそれは、ネイティブ・アメリカンなど世界の先住民族と共通する日本人の伝統的な精神文化を骨抜きにするために、明確な悪意を持ってねじ曲げられた歴史です。
今こそ、本当の日本人として目覚めましょう。
パラオの歴史は悲惨なものでした。
16世紀頃より、スペイン人が初めて渡来し、次いでポルトガル人、イギリス人がやってきました。
そして、1885年にスペインが侵略してきて植民地下になりました。
その後ドイツに売却されてまた植民地となりました
これらのヨーロッパ人により天然痘などが持ち込まれ、また現地人に対する搾取や虐殺が行われた結果、パラオ人の人口は90%も減少したといわれています。
第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは、1920年、日本が統治しました。この時からパラオは、植民地ではなく、日本国の一部になったのです。
パラオ人たちは、今度は日本人に支配されて、また虐殺されると思っていました。
ところが、日本が来ると生活が豊かになりました。電気や水道が引かれ、病院も建設されました。
1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていきました。
また、日本人はパラオ人に土木・建築などの技術指導を行い、工場が建設されて産業も発達しました。さらに、パラオの人々は教育を受けることが出来るようになりました。
そして、パラオの人々は日本人と一緒に平和に暮らしました。
日本が敗戦した1945年以降は、パラオはアメリカによって50年近く統治されました。
アメリカはパラオに教育と福祉だけは施しましたが、日本とは違い産業振興にはほとんど支援を行いませんでした。
この政策は「動物園政策」(ズー・セオリー)と言われました。すなわち、アメリカの援助に依存しないと社会が成り立たないような政策を続けたのです。
動物園政策によってパラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになり、また、食料がアメリカによって供給されたことによって蛋白源が伝統的な魚介類から輸入肉製品中心となり、肥満の問題も発生しました。
そしてアメリカは、「日本は残虐だった。多くのパラオ人たちを殺した」とパラオ人たちに学校で教え込んだのです。
ところが、パラオ人はそれを信用しませんでした。長老たちが「何を言うか!日本人は素晴らしかった」と反論したのです。
パラオは94年に独立すると、すぐにアメリカに押し付けられていた歴史の教科書を変えました。日本に対する中傷の記述を削除したのです。
教科書はこのように書き換えられました。
「日本の教育は非常に厳しい。しかし、生徒がどのような氏族に属し、どのような身分であろうとも、そのようなことは重視せず、人格を尊重する。一年生すら掛け算九九を暗記することが出来た。」
第二次世界大戦中、パラオのペリリュー島は、日米の激しい戦闘の舞台となりました。
フィリピンが近くにあるので、アメリカはこの島を落としにかかり、日本軍の数百倍の兵器と、圧倒的な数の兵士を送り込んで来たのです。
この時のペリリュー島において、現地のパラオの人々と日本人兵士との、心の絆に関する深い逸話があります。
この地にアメリカ軍が乗り込んで来ると判ったときに、パラオの代表者数名が、中川州男大佐を訪ねてきました。
彼らは「自分たちは死ぬ覚悟は出来ているから、日本兵と一緒にアメリカと戦わせて欲しい」と言ったのです。
ところが、中川大佐は激高してこう叫びました。「誇り高き帝国軍人が、貴様ら土人なんぞと共に戦うことができるか!出て行け!!」と。
その言葉を聞いた島民たちは裏切られたと思いました。日本人は心の友だと思っていたのに、やはり本心では自分たちを見下していたのだ、と思ったそうです。
そして、ペリリュー島のパラオ人たちは全員船に乗せられて、非戦闘地域に疎開させらることになりました。
パラオの島民たちが船に乗り込む時になって、日本軍の兵士は誰一人として見送りに来ない……、島民たちは愕然としました。
ところが、その船が岸から離れたとたんに、日本兵の全員が砂浜に一斉にどっと走って出てきたのです。彼らは、島民たちが全員船に乗るのを隠れて確認していたのでした。
そして、日本兵たちは皆で手を振りながら、島民と一緒に歌った日本の歌を歌い出したのです。涙を流していた者もいました。
その先頭には、あの中川大佐の姿がありました。
その時、島民たちは、あの「土人」という言葉は、自分たちを殺さないためにわざと言ったのだということを悟り、号泣したのです。
その後、ペリリュー島で戦った日本兵は玉砕しました。
中川大佐は自決しました。
しかし、パラオ人に犠牲者は一人も出ませんでした。
みんな死ぬことを覚悟していたのです。
日本を、自分の家族を、決して白人の奴隷にしてはいけないと願って命を投げ出したのです。ごく普通の若者たちが、国のために進んで命を捨てていったのです。
ペリリュー島には、その時の日本兵を讃えた慰霊碑があります。
「この島を訪れる諸々の国の旅人よ、あなたが日本の国を通過することがあらば伝えてほしい。この島を死んで守った日本軍の守備隊の勇気と祖国を想うその心魂を。」
パラオ人は、今でも日本が大好きです。
パラオの国旗のデザインは国民投票で選ばれ、青い海原に満月です。
日本の国に敬意を表し、日本の国旗が太陽ならば、パラオの国旗は月を現したものなのです。
パラオの月は、中心よりも少しずれた位置に描かれています。
この月が真中にあるとあまりにも日本の日の丸に似すぎていて畏れ多いので、少し左に寄せたのだといいます。
ペリリュー神社
1934年、天照大神を祭神とし、ペリリュー島の繁栄を祈願して建立された神社である。
1982年に再建された後はペリリュー島で戦死した一万余名の英霊が併祀されており、日本のNPOと現地の人々の協力によって管理されている。
この神社は、パラオにとって、日本からの慰霊団や観光客からの外貨取得にも寄与している。